「神との交流」程では無いです。
五十黙示録 補巻
月光の巻 第三十八帖
はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。
二月一日。
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もうちょっと色々勉強してから、再スタートしたかったんですが、・・・。
あいも変わらず、細々と信仰生活を送っています。
心霊の「騎士」さんは変わらず、色々注意のラップ音を聞かせてくれています。
前からそうでしたが、何となく朝の「お祈り」を重要視している感じ。
夜よりも。
前の日の夜、目覚ましをかけて居ない事を注意されたり。
もっと早く起きろ!みたいな音もあったり。
何より家族より早く、朝一番に「お祈り」が大切な感じでした。
リニューアルを目指し、
を読んでいますが、
P126 7行目 至恩郷の奉斎
「朝、吾が命を総って大神の御心のままに御使い下さいと礼拝し、空の皿(かわらけ)に誠の心をお供えし任せ切った平安な心で1日を過ごしますので、善だ悪だと裁く気がなくなり、大変楽になります。」等々との記載あり。
神様にこの身を惟神にお任せする事なんでしょうが、その代わりでは無いですが、色々と厄介な事から身を守る様にしてくれるのではないかと思う事があります。
まあ今日なんかは、突然の胸さわぎがしておりましたところ、結果!仕事の失敗がありまして。(T ^ T)
1時間ぐらい前からだったので、気分が悪いとの理由で早退も出来たのですが、そこはまだ身魂が磨けていないので、理由は分からず仕舞いでした。
しかし、、、人生逃げてばかりも行かないのです。
胸さわぎ程で無くても、些細な知らせも有り、丁寧に考えないと見落とす感じですが、今日は他にも有りました。
この状況を、自分が納得する様に敢えて理由を付けるならば、
日月神示に所縁のある心霊さんが、朝のお祈りを頂く代わりに、神の様に導いてくれるシステムがあるのではと?言う感じです。
偶然に今日、読んだ神示と虫の知らせ、本家の至恩郷の奉斎が一致しただけかもしれませんが、「いいタイミング!」という事で落ちとさせて頂きます。
以上、これからも不定期に更新していきます。